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小説「観月 KANGETSU」#31 麻生幾

第31話
熊坂洋平(4)

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「いや、いいん」

 七海は、母の様子を探りながら適当に言った。

「お腹は?」

 母が訊いた。でも背を向けたままだった。

「もうペコペコ」

 七海は明るく言った。

「あっ、ちいと待っちょって。ひんやりしてきたけん、上着、持っち来るけん――」

 母はそこからまるで逃げ出すようにして廊下へと足を向けた。

 母が奥の部屋に入ったことを確認した七海はすぐに動いた。テーブルに駆け寄った七海は、折り畳まれた新聞を急いで広げた。

 それは朝刊だった。

 探していたページはすぐにあった。

 母の涙の痕があったからだ。

 そこは社会面だった。

 七海は涙で濡れた部分に目を近づけた。

 ある事件について書かれている記事があった。

〈男性、胸を刺され死亡 多摩川河川敷 殺人事件として捜査〉

 物音がしたので、七海は慌てて新聞を元の位置に片付けてテーブルから離れた。

「急いで作るけん待っちょっちくりい」

 戻ってきた母がそう言って、いつもの笑顔を向けた。

「ところで、今日、なんで食事もせずにこげえ遅うなったん?」

 台所で料理の支度をしながら母が何気なく訊いた。

「実は……警察におったん……涼んところん……」

 七海はたどたどしく言った。

「警察?」

 冷蔵庫を開けた手を止めた母が急いで振り返った。

「なぜ警察に?」

 怪訝な表情で母が訊いた。

「言うちょらんかったけど……3日前の夜、帰宅しちょった近くの道で、不審者がおったんやけんど、それを熊坂さんが追い払ってくれて……」

 七海は、母を心配させたくなかったので、“襲われそうになった”という言葉を変えて説明した。

「えっ!」

 母は驚きの声を上げた。

「それで、なし今日、警察に? 警察は七海に何を聞いちきたん?」

 母が矢継ぎ早に質問した。

 七海は驚いた。3日前の夜に自分が遭遇した出来事をなぜ隠していたの、と叱られると思っていたのがそうでないどころか、今日のことに強い関心を寄せているからだ。

「やけん……熊坂さんのことについてアレコレ……」

 七海は躊躇いがちに言った。

「熊坂さんのこと? どげなこつ?」

 母は嶮しい表情で訊いた。

「なんか……昔のことを……」

「昔のこと? 具体的に何を?」

 母は詰問調で迫った。

 七海は、母のその姿に困惑した。

 どうしてそんなにまでして聞いてくるのか……。

「これまで熊坂さんと付き合うてきて、変やなぁ、妙やなぁ、って感じたこたあなかったかと……」

 七海は戸惑いながら答えた。

「七海はなんと言ったん?」

 母は急いで聞いてきた。

「別に、何もねえち言うたわ」

 母は目を彷徨わせて、急に押し黙った。

「その正木って刑事、3日前の夜に私に起こったことを捜査するために私を呼んだと思ってたんやけど、結局、熊坂さんのことを聞きたかったんちゃ。やけん、私、頭に来てしもうて──」

「なし、警察は熊坂さんの昔んことを……」

 母は独り言のようにそう口にした。

「あんなぁ、これ私の勘なんやけんど、警察は、熊坂さんが、奥さんの久美さんを殺したと疑ってるようなん。やけん強い関心があるんやねえ?」

「あん人がそげなこつするわけねえわ」

 母は吐き捨てるように言った。

(続く)

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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