辻田真佐憲

歴史書に「愛国ポエム」が挟まっていてもいい / 辻田真佐憲

★前回の記事はこちら。
※本連載は第4回です。最初から読む方はこちら。

 先日居酒屋で、半藤一利の本にハマっているという60過ぎの男性とたまたま会話になった。「どこがとくに気に入りましたか」と訊くと、かれは「ところどころに著者の主張が小気味よく入っているのがいい」と答えた。わたしは「なるほど、そう考えるのか」と膝を打った。

 昨今、歴史書は「著者の主張やイデオロギーを紛れ込ませない」のがいい本だとされている。中立客観を標榜し、事実を淡々と並べ、解釈は読者に委ねる。それが潔いとされているのである。

 たしかに、歴史書に慣れ、月に何冊も読むものにはそれでいいかもしれない。だが、誰もがそんな時間や余裕をもっているわけではない。

 文化庁の「国語に関する世論調査」(平成30年度)をみると、「1ヶ月に大体何冊くらい本を読むか」の問いに、47.3%のひとが「読まない」と答え、37.6%のひとが「1、2冊」と答えている。つまり85%近いひとは、年間の読書量がおよそ24冊以下なのである。このうち歴史書の占める割合は、当然ながらもっと少ない。

 この状態で、「何冊も読み比べ、自分の頭で考えよ」と言っても仕方がない。いや、読書量は増やしたほうがいいとは思うけれども、仮に増えたとしても、人生は短く、世界は広いのだから、おのずと限界にぶつかってしまう。

「ずらずらと事実を書いてあるが、結局どういうことなの?」。そう悩まされ、喉が乾ききったところに、横合いから「それは日本人が昔からスゴかった証拠なのだ!」という一掬の水を与えられると、「欲しかったのはこれだ」と飛びついてしまうのも頭ごなしに否定しがたい。昨今の「日本スゴイ本」ブームも、そういう需要をうまく捉えているのではないだろうか。

 わたしは、さきの会話をしながら、百田尚樹の『日本国紀』を思い出さずにはいられなかった。同書も、教科書的な記述の合間に、著者の考え――あるひとはこれを「愛国ポエム」といっていたが――が挟まっていると指摘されている。そしてそれにエビデンスがないなどと批判されている。

 とはいえ、この主観的な部分があるからこそ、逆に同書は広く受容されていると考えることもできるのではないか。

 もとより、その内容がすべて正しいといっているのではない。ただ、「結局どうなの?」という声がなくならない以上、それを無理に封殺しようとすると、その受容を満たしてくれるものがかえって強く求められるといっているのである。

 それだから、あえて刺激的な表現をすれば、歴史書に「愛国ポエム」が挟まっていてもいいのではないかとすら言いたくもなってくる。

 もちろんここで「愛国」とは、単純な自国礼賛ではなく、「日本を誇りに思うからこそ、日本という国には政治的理想を少しでも実現してもらいたいと思う。そのために常に自国の政府に批判的視線を向ける」(将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』)のような態度であるべきだと思うが。

 ポエムといっても、馬鹿にしているわけではない。特定の分野に詳しいものでも、そこから少し離れると、その言動は限りなくポエムに近づいていく。ある専門家が、たまたま書店で手にとった本に感銘を受けて、あやしげな健康法にハマっている、などということは珍しくもないことだ。

 振り返れば、少し昔の歴史書には、しばしば「愛国ポエム」ならぬ「左翼ポエム」のごときものがしばしば挟まれていた。この手の記述は、そんな簡単に除去できるものでもない。

 この連載でもすでに述べたとおり、人生に限りのあるわれわれは、いくら排除しようとしても、結局ポエムのようなもの――物語や曖昧さ――から逃れられず、それだからこそ、ポエムとうまく付き合うことを模索するしかない。

 なにも、すべての本について主張やイデオロギーを入れろといっているのではない。別に中立客観を標榜するものがあってもいいし、それは大切にされなければならない。ただ、主観を含む本に対してもう少し寛容になるべきだ(そしてその上で、物語の向上に努めるべきだ)と言っているのである。

 そもそも、中立客観を標榜している本に主張やイデオロギーが紛れ込んでいないわけではないし、もっといえば、「実証主義で歴史修正主義を屈服させる」というたぐいの主張が、物語を否定しているようで、なんの実証性もない、物語否定の物語(メタ物語)に依拠していることもしばしば見受けられる。

 少なくともわたしは、さきほどの居酒屋で、「いやいや、その記述は最近の研究に照らすと不正確です。その歴史を学ぶのであれば、あれとあれとあれを読むべきで……」などと返す気にはならなかった。

 適度に著者の主張が入っていて、広い読者に1年にとりあえずこれ1冊と薦められるような歴史書。そんなものを、SNSの炎上祭りのノリで攻撃し、衰滅させてしまうことこそ、わたしには危惧すべき動きのように思われる。

(連載第4回)
★第5回を読む。

■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。


【編集部よりお知らせ】
文藝春秋は、皆さんの投稿を募集しています。「#みんなの文藝春秋」で、文藝春秋に掲載された記事への感想・疑問・要望、または記事(に取り上げられたテーマ)を題材としたエッセイ、コラム、小説……などをnoteにぜひお書きください。投稿形式は「文章」であれば何でもOKです。編集部が「これは面白い!」と思った記事は、無料マガジン「#みんなの文藝春秋」に掲載させていただきます。皆さんの投稿、お待ちしています!

▼月額900円で月70本以上の『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください