小説「観月 KANGETSU」#20 麻生幾
第20話
ガス橋殺人事件 (4)
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「具体的にはどちらの?」
萩原が優しく語りかけた。
「大分県の関連施設です」
その言葉もそれまでとは違い、毅然としていた。
「名称は分かりますか?」
「これまで、いろいろ、転々としましたので……図書館とか公民館とか……随分と昔の話ですから詳しくはもう記憶には……」
そのたどたどしい雰囲気とは違い、言葉を口にする滑舌は素晴らしく良かった。
しばらく沈黙が流れた後、萩原が訊いた。
「奥さん、事件のことをお聞きしなければなりません。ご主人、誰からか恨まれていたようなことはありませんでしたか?」
「私が知る限りはなにも……」
恭子の雰囲気は、再び、か弱い雰囲気へと一変し、消え入りそうな声で答えた。
「さきほど、不審な無言電話が何度かあったことや、ご主人に声をかけても上の空のような時が頻繁にあったと仰っていましたが、その理由についての心当たりは?」
萩原のその問いかけには、肩を落とした恭子は黙ってまま力なく首を左右に振った。
「なるほど」
その梶原の言葉で、萩原は現実に戻った。
「妙だと感じるんだったら、恭子に徹底して張り付け」
梶原は語気強く言ってから背後を振り向いた。
「ちょうどいい。助けっ人を呼んでおいた」
そう言った梶原が大声で、ある名前を呼んだ。
多くの捜査員たちを掻き分けるようにして一人の女性が梶原の元に駆け寄った。
「課長に言って、セイハン(性犯罪捜査係)からマルガイ対策に廻してもらった、黒木菜摘(くろきなつみ)巡査長だ。妻の恭子に寄り添うためには、やはり女性が必要だ」
梶原が紹介した。
「よろしくお願い致します!」
菜摘は元気よく頭を下げた。
「よろしくな」
萩原は自分から手を差し伸ばした。
一瞬、戸惑った菜摘はそっと握手を返した。
他のベテラン捜査員が思うのとは違って、萩原は女性警察官を苦手としなかったし、拒絶もしなかった。それどころか逆に求めていた。女性しかできないこと、女性しか入れない場面が必ずあることをこれまでの経験則で痛感していたからだ。
「ところで、鑑識さんが報告した、マルガイの首に貼り付いていたという、あの紙についてはどのような見立てを?」
萩原は話題を変えた。
梶原は、目の前に積み上げた資料の山の中から、一枚の写真を取り出した。
梶原が片手で掲げたのは、犯行現場で庶務担当管理官の井村から見せられた、あの、青い七つの星が円上に描かれた白い紙だった。
「ドラマ風に言えば、捜査を混乱させるためのウンヌン、そういうことなんだろ」
「指紋は検出されなかったということですが、気にはなりますね――」
梶原の手から写真を取った萩原は、砂川と菜摘にも見せてやった。
「まあな。だから、捜査事項の1つとして指定し、現場遺留品捜査班でやらせることにした」
萩原が写真を梶原に戻した時、
「萩原主任、ちょっとよろしいですか?」
と砂川が萩原に口をかけた。
思わせぶりな表情を作った砂川に、萩原は直感的に興味を持った。
萩原は、重要な任務に抜擢されたばかりで緊張した表情の菜摘を連れて、砂川とともに廊下に出た。
砂川は堰を切ったように話し始めた。
「今日、恭子に会った時、どうしても思い出せなかったんですが、今、萩原主任がデスク主任と話されていた時にやっと分かりました」
「なんだ?」
萩原が促した。
(続く)
★第21話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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