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ヨーロッパは「保険」を発明して、大航海で中国を追い抜いた/野口悠紀雄

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※本連載は第24回です。最初から読む方はこちら。

 ヨーロッパの大航海は、中国より1世紀近く遅れました。しかし、やがて中国を追い抜いていくことになりました。

 これは、ヨーロッパで、海上保険などの仕組みが発明されたからです。

◆中国がヨーロッパにリープフロッグされる


 中国の明帝国による大航海は15世紀の初め頃のものだったのですが、それから約1世紀近く遅れて、ヨーロッパの大航海が始まりました。

 これがヨーロッパを中世から脱却させ、やがて産業革命の時代へと導いていくことになります。

 こうして、中国はヨーロッパにリープフロッグされたのです。

 これがどのような過程であったのかを、やや長いレンジで見ることにしましょう。

 ヨーロッパの中心は、地中海でした。古くから、この沿岸の地域で様々な交易が行われていました。

 古くは、フェニキア人が、東地中海岸の現在のレバノンのあたりを拠点に、地中海における海上貿易に従事していました。彼らは、航海術に巧みでした。

 フェニキア人は、さらに地中海各地に交易の基地を設け、それらの基地は次第に植民市となっていきました。 

 それらの中で、北アフリカの現在のチュニジアに建設された、カルタゴが有名です。

 その後、イタリア半島中部の都市国家ローマが成長して有力となり、カルタゴと衝突。結局はローマがカルタゴを滅ぼしました。

 こうして、前1世紀までに、ローマが地中海を「われらの海」として支配するに至り、地中海を中心とする経済圏・文化圏を発達させていったのです。

◆地中海での航海はハイリスク・ハイリターン


 イタリアの船乗りたちは、中近東を経て、インドにまで交易を広めて行きました。

 ここで重要なのは、彼らは、造船技術や航海術というエンジニアリングに長けていただけではなく、危険な航海を行うための経済的な仕組みを作っていったことです。

 地中海は内海であり、比較的穏やかな海です。しかし、時によっては暴風が吹き、それによって船が難破することがあります。

 また、とくにアドリア海の東岸には、海賊が跋扈していました。

 すると、貴重な積み荷が失われたり、奪われたりしてしまいます。

 このように、航海は冒険航海だったのです。現代のビジネス用語を用いれば、イタリアの航海者たちの事業は「ハイリスク・ハイリターン」だったということになります。

 しかし、彼らは、決して無謀な航海を行ったわけではありません。リスクに対処したのです。

 それが保険の仕組みであり、会社の仕組みなのです。

◆『ベニスの商人』に描かれた、危険分散の仕組み
 

 保険の原理は、ウィリアム・シェイクスピアの『ベニスの商人』に描かれています。

『ベニスの商人』は、よく知られているように、「アントニオがシャイロックから借金をしたが、返済できなくなり、担保にした胸の肉を切り取られそうになる」という話です。

 返済できなくなったのは、所有する船が難破してしまったからです。

 ベネツィアは貿易で栄えたのですが、航海は決して安全ではなかったのです。

 成功すれば莫大な利益を上げられますが、失敗すれば、「胸の肉を切り取られる」ような危険にも直面するのです。

 こうした状況に対応するために作られたのが、海上保険です。

 その基本は、危険を分散することです。

 べネツィアが富を築いた鍵が、保険なのです。

 では、べネツィアの商人が使った方法とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?

 それについて、アントニオ自身が、つぎのように説明しています。

 まず、「ぼくの投資は、1つの船だけにかかっているのではない」と言っています。

 つまり、所有船を1か所に集中せず、さまざまなところに分散させていたのです。

 トリポリに1隻、西インドに1隻、そして、メキシコやイングランドやリスボンにも、一隻ずつ、というように。

 アントニオの方法について、シャイロックは、「やたらとあちこちにばらまいているらしい」と言っています。

 では、この方法がなぜ有効なのでしょうか?

 簡単な数値例を用いてそれを説明しましょう。

 いま、アントニオの所有船は全部で2隻であるとします。そして、各船の積荷の価値を1とします。また、難破する確率を2分の1としましょう。

 ここで、2つの方法を比較してみましょう。

 第1の方法を「集団方式」と呼ぶことにします。これは、2隻の船を同じ航路で同時に運航させる方式です。

 この場合、船が帰還すれば入手できる荷物の価値は2になりますが、嵐に会って難破すれば、ゼロになります。これらが起こる確率は、それぞれ2分の1です。

 第2の方式を「分散方式」と呼ぶことにします。

 これは、例えば、1隻はリスボンに向けて運航させ、他はイングランドに向けて運航させる方式です。

 この場合、どちらも難破しなかった場合には、積荷の価値は2です。これが起きる確率は4分の1です。

 どちらも難破すれば、入手できる積荷の価値は0で、これが起こる確率は4分の1です。

 リスボンかイングランドの一方だけが難破すれば、積荷価値は1となります。こうなる確率は2分の1です。

◆最悪のケースを避けるには、分散方式がよい


 集団方式と分散方式のどちらが望ましいでしょうか?

 それを評価するため、まず、「帰還する積み荷の期待値」という指標を考えましょう。これは、帰還する積み荷の価値に、その確率を乗じて足し合わせたものです。

 集団方式の場合には、期待値は、2x(1/2)+0x(1/2)=1 となります。

 分散方式の場合には、期待値は、2x(1/4)+1x(1/2)+0x(1/4)=1 となります。

 このように、期待値は同じです。

 しかし、分散方式のほうが望ましいのです。なぜなら、帰還する積み荷の価値がゼロになってしまう場合(つまり、アントニオが胸の肉を切られてしまう場合)の確率は、集団方式の場合には2分の1の確率で生じますが、分散方式であれば、4分の1に減少できるからです。

 「帰還する積み荷の価値がゼロになってしまう」というのは、「壊滅的な場合」です。リスクがある場合には、こうした状況を回避することが何より重要なのです。

◆分散方式を推し進めた「保険」が発明される


 アントニオが実行していたような「分散方式」を進歩させた仕組みが、海上保険です。これを簡略化して説明すれば、つぎのようになります。

 船主が組合を作り、保険料を拠出しあいます。そして、嵐や海賊に会った場合には、拠出された保険料で損失を補てんすることにします。

 簡単化のため、組合に参加する船の総数は100隻で、船1隻あたりの積み荷の価値は1,そして、1隻あたり0.5の保険料を拠出するものとしましょう。

 船が無事に帰還した場合には、保険金の受け取りはありません。

 事故にあって帰還しなければ、積荷の価値(1)だけの保険金を受け取ります。事故に会う確率は、2分の1であるとします。

 個々の船主の立場から見ると、収支はつぎのようになります。

 船が帰還すれば、積荷の価値が1で保険料が払い捨てになるので、差し引き、収益は0.5です。

 船が帰還しなければ、積荷の価値はゼロですが、1だけの保険金を貰えます。これから保険料を差し引いた0.5が収益となります。つまり、船が帰還してもしなくても、0.5の収益が保障されるのです。

 ここで重要なことは、「平均して」0.5の収益が得られるのでなく、「確実に」0.5の収益があるということです。つまり、リスクが消滅してしまうのです。

 もう一度、上の数値例を見ましょう。

 保険に入っても入らなくても、収益の期待値は0.5で、同じです。

 しかし、保険に入れば、リスクはゼロになるのです。

 ですから、保険は明らかに有利ということになります。誠に、「無から有を生み出す魔法」のようなことが実現できるのです。

 残る問題は、このような仕組みを、損失を発生させずに運営できるかどうかです。

 ここで、「大数の法則」と呼ばれるものが重要な役割を果たします。

 それは、「船の数が十分多ければ、実際に帰還する船の数は、帰還する船の期待値に近づく」という法則です。

 いまの場合には、船の総数が100隻で帰還確率が2分の1ですから、ほぼ50隻の船が、実際に帰ってくるのです。

 帰還船の「期待値」が50隻なのではななく、「実際に」帰還する船が50隻という点が重要です。

 したがって、保険事業の収支はつぎのようになります。

 保険料の総額は、各船の負担額0.5に隻数を掛けた50です。

 他方で、保険金の支払いは1隻当たり保険金に非帰還船数50を掛けた50です。

 このように(事務費等を無視すれば)収支が釣り合うので、保険は実行可能な事業だということになります。 

 分散方式や保険によって、船主はリスクを回避しつつ、事業を行うことができるのです。

(連載第24回)
★第25回を読む。

■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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